hiroshinji’s diary

生まれて小・中・高・大学生までの思い出を綴ってます

0501 おふくろのこと

冒頭で少し触れたが、おふくろは専業主婦で、父が泊まりの勤務があったり不規則な中、家庭を守り続けてくれた。いつも自分のことは後回しにして家族のことばかり考えて行動し、感謝してもしきれない。料理もレパートリーに富み、あり合わせでも何でもおいしくつくってくれた。

ほとんど風邪とかで寝込む人ではなかったが、一度だけ小学校低学年の頃、腰を痛めて、椎間板ヘルニアで入院したことがあった。このときは父方のおばあさんが来て家事全般をやってくれた。ちょうど入院中に小学校の発表会があり、確か舌切り雀とかの劇で私が主役をやったので、一時退院許可をもらって見に来てくれた。

私が大学卒業後、帰広してから結婚するまでの10年ちょい、同居して家事一切をやってもらい感謝している。

そのお返しということでもないが、還暦祝いに昔暮らしていた台湾旅行をプレゼントしたら、すごく喜んでくれた。

 

 

0410 親父のこと

私の父のことは冒頭に少し書いたが、酒は全くの下戸だった反面、ヘビースモーカーで缶ピースを吸っていた。一度40代で胆石になり、大きいお腹に10センチくらいの縫った傷跡があったが、50歳前くらいで肺結核と診断され、入退院を繰り返していたように思う。

大学生になって夏休みと冬休みは帰省していたが、春休みは短いし、帰るつもりはなかった。しかし、母親から帰ってくるようにという手紙をもらい、なんかよくない話があるのかなと。帰省すると案の定母親から、「父は肺がんで、もうあともって半年、長くても1年くらい」と…。兄はともかく、私までそういう予感をしていたというのを聞いてびっくりしていたが、普通思うよねぇ。

当時化学療法がすでにあったか定かではないが、もはや手の施しようがなく、望みは当時無認可の(今も?)丸山ワクチンだけだった。

夏に帰省して、顔を出せるときはなるべく病院に見舞いに行っていたが、まだすぐにどうこうということはないと聞いていた。しかし、その日も病院に顔を出していたが、母親から今日は帰りなさいと言われ、一人で夕食を取り、お風呂を沸かしていた8時過ぎに電話がかかってきた。あまりに急で私は父の死に目に会えなかったのだ。「最近調子良さそうだったから1年くらい伸びるのかと思っていたけど、やっぱりちょうど半年だったねぇ」

通夜、葬儀から四十九日まで慌ただしく過ぎ、家族3人で京都に納骨に行った。様々な手続きや葬儀屋との対応、香典返し、その他諸々いろんなことがあったと思うが、全て母と兄でやってくれて、心底次男坊でよかったなあと感じたものだった。

今思えば、親父はただでさえ寡黙な人で、ふだんあまり親子で話をすることもなかったが、将来のこと、社会人として、男としてどのように生きるべきか、父親として、人生の先輩としてほとんど深い話を聞けないまま旅立たれたので、二人とも下戸同士だったが、酒でも飲みながらそんな話をしてみたかったと残念に思う。

最終的に独り身になった母親のこともあり、広島に里帰りすることにした。

 

 

以上、物心ついてから、小・中・高、そして大学生までの約20年間を思い付くままとりとめもなく書き綴った。就職してからのことはあまり書く気がしないので、とりあえずここで筆を置くことにします。最後まで読んでくれた奇特な方は本当にありがとうございました。

 

0407 横浜から東横線で渋谷へ

当時つるんだメンツの半数は東京在住で、井の頭線沿線とかが多かったので、東京まで出るとなると東横線から渋谷に出ることが多かった。東横線は山の手を走っており、田園調布や自由が丘などブルジョア層が住むイメージがあった。セントルイスという漫才コンビの「田園調布に家が建つ」っていうのが一世風靡してたけど、今の人にはわかんないだろうなあ(笑)。

また、待ち合わせはベタだけどハチ公前とかが多かった(笑)。

今や世界で最も有名な交差点と言われる渋谷スクランブル交差点も、通行量こそ多少少なかったかもしれないが、当時から同じ形だったと思う。

0406 会社訪問と就職

当時は4年生の10月1日が会社訪問の解禁日。10月1日には時計のセイコーの前身服部時計店を訪問した。文科系の私は、特別どうしてもこの業種に就職したいというものはないが、私なりの考えである程度業種を絞り込んだ。その業種は精密機械業界で、資源を持たない加工貿易国日本では、製品にいかに付加価値を付けるかがポイントであり、時計・カメラなど海外でも評価の高い会社を中心にターゲットを絞った。服部時計店シチズン、キャノン、パイオニア、富士写真フィルム、リコーなどなど。すべり止めと言っては失礼だが、ゼミの先輩の関係で訪問した○○社は即内定をもらえていたが、結局上の6社の中ではリコーの内定をもらっていた。

一方で、普通に会社訪問をしたものの、4年間広島を離れてみて、自分はやっぱり広島の街が好きだというのと、民間に就職したら営業職で転勤、転勤で全国どこに行かされるかわからないというのよりも、ずっと広島に居れる方がいいなあと。また父親が公務員だったが、それを継ぐというのもいいかも、自分の性格的に営業職よりもこつこつやる公務員の方が性に合っているかも…。いろんなことを考えて、ほとんど公務員試験の勉強はしていなかったが、広島市広島県の上級試験だけ受けてみた。その結果、幸運にも広島市の方は合格をもらえた。

0405 仲間といっしょに北陸旅行

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大学最後の夏、卒業旅行ではないが、思い出にこの白馬の合宿のあと北陸旅行をしようということになった。同好会の4年生メンバーT、S、O、Tと私、紅一点の女子マネージャーOさんの6人で2台の車に分乗していった。白馬から北上し、新潟県糸魚川に出て、日本海を西へ。金沢に行き、兼六園へ。翌日輪島まで足を延ばし、急に一人が日本海に沈む夕日が見たいと言い出し、車をぶっ飛ばす。結局間に合うはずもなく…。途中海水浴場があったので、海水浴をしたりもした。

 

0404 サッカー同好会でお茶を濁す(笑)

サークルはやっぱりサッカー、でも本チャンのサッカー部ではなく、サッカー同好会というのがあったので、そちらに入ることにした。どんな大学とやったかよく覚えていないが、一応リーグ戦があり、北関東辺りまで試合に行った記憶がある。練習は一応週2日くらいはやってたと思うが、もっぱら試合と終わった後の飲み会がメイン。その飲み会で人生初めて『春歌』というものに遭遇し、内容はとても言えないがこんな世界もあるのかと(笑)。「ヤン坊、マー坊」とか「もしもし亀よ」とか(爆)。

このサッカー同好会では、毎年夏休みに3泊4日くらいの夏季合宿が恒例となっていた。場所は毎年一緒で、信州白馬、駅で言えば信濃森上という駅で、民宿でお世話になっていた。夏休みの最初にあったので、その足で広島まで帰省していた。

0403 いろんなアルバイトを経験したぜ

人生最初のアルバイトは交通量調査。拘束時間12時間で1日8千円くらいだったか。結構いろんなバイトを経験したが、1年のとき半年くらい焼肉屋さんの厨房をやった。結構いろいろ任されて、わかめスープやナムルの盛り付け、ビビンバ、クッパとかも作っていた。野菜を切ったり、時には肉を切ったりもしていたので、かなり自炊の役に立った。夜のバイトだったので、仕事終わりにはまかないを食べさせてもらっていたが、月に1回くらいは焼肉も食べさせてもらった。

あと変わったところでは、信州味噌の訪問販売とかも経験した。これは4人で味噌を積んだライトバンに乗って団地や住宅地に行き、適当な場所に車を止めて、30分から1時間くらいの間担当を4方向に分けてブロックの家を1軒ずつ訪問し、信州の手造り味噌を売るというもの。最初はもうすごく緊張して絶対その日で辞めようと思ったが、新しいバイトを探すのもと思って続けているうちに要領がわかってきて、だんだん奥様相手に苦学生を前面に出せば結構買ってもらえた。歩合制で5個刻みでバイトの単価が替わるので(たとえば1~5個は@300円だが、6~10個だと350円にアップ、20個以上だと@500円とか)、単価が替わる場面では、「ノルマがあって今日これを売らないと帰れないんです。僕のもうけ分はいらないので、原価で買ってください」とか泣きつくと、「まあ、えらいわねぇ、うちのバカ息子に爪の垢を煎じて飲ませたいわ」と同情を引き買ってもらえた(笑)。樽売りもあって初めから樽売りだけを狙う猛者もいた。

ほかには中元のときにT屋デパートの配送センターで荷物の仕分けとかもやったが、リーダーがせっけんや調味料セットをバンバン投げるのでびっくりしたものだった。商品券売り場で売り子をやったこともあったが、企業とかで一度に何十万円も買っていくので、学生の分際でこんな大金を扱っていいのかなと。昼は食券をもらって社員食堂で食べるのだが、若いきれいなデパガが裏ではタバコをスパスパやってる姿を見て、あんまりそういうの見たくないなあと思った。

3年生になったときには、知り合いの東大生の人が就職するので譲り受けた塾の講師をやったが、中学生(1年と2年、3人くらいと6人くらい)の英語と数学を1時間半を2コマ、1日3時間の週2日。時給3千円なので1日9千円、月7万2千円にもなったので、すごくありがたかった。内容も受験ではなく、教科書の虎の巻を説明すればいいだけだったので、かなり楽だった。