hiroshinji’s diary

生まれて小・中・高・大学生までの思い出を綴ってます

0403 いろんなアルバイトを経験したぜ

人生最初のアルバイトは交通量調査。拘束時間12時間で1日8千円くらいだったか。結構いろんなバイトを経験したが、1年のとき半年くらい焼肉屋さんの厨房をやった。結構いろいろ任されて、わかめスープやナムルの盛り付け、ビビンバ、クッパとかも作っていた。野菜を切ったり、時には肉を切ったりもしていたので、かなり自炊の役に立った。夜のバイトだったので、仕事終わりにはまかないを食べさせてもらっていたが、月に1回くらいは焼肉も食べさせてもらった。

あと変わったところでは、信州味噌の訪問販売とかも経験した。これは4人で味噌を積んだライトバンに乗って団地や住宅地に行き、適当な場所に車を止めて、30分から1時間くらいの間担当を4方向に分けてブロックの家を1軒ずつ訪問し、信州の手造り味噌を売るというもの。最初はもうすごく緊張して絶対その日で辞めようと思ったが、新しいバイトを探すのもと思って続けているうちに要領がわかってきて、だんだん奥様相手に苦学生を前面に出せば結構買ってもらえた。歩合制で5個刻みでバイトの単価が替わるので(たとえば1~5個は@300円だが、6~10個だと350円にアップ、20個以上だと@500円とか)、単価が替わる場面では、「ノルマがあって今日これを売らないと帰れないんです。僕のもうけ分はいらないので、原価で買ってください」とか泣きつくと、「まあ、えらいわねぇ、うちのバカ息子に爪の垢を煎じて飲ませたいわ」と同情を引き買ってもらえた(笑)。樽売りもあって初めから樽売りだけを狙う猛者もいた。

ほかには中元のときにT屋デパートの配送センターで荷物の仕分けとかもやったが、リーダーがせっけんや調味料セットをバンバン投げるのでびっくりしたものだった。商品券売り場で売り子をやったこともあったが、企業とかで一度に何十万円も買っていくので、学生の分際でこんな大金を扱っていいのかなと。昼は食券をもらって社員食堂で食べるのだが、若いきれいなデパガが裏ではタバコをスパスパやってる姿を見て、あんまりそういうの見たくないなあと思った。

3年生になったときには、知り合いの東大生の人が就職するので譲り受けた塾の講師をやったが、中学生(1年と2年、3人くらいと6人くらい)の英語と数学を1時間半を2コマ、1日3時間の週2日。時給3千円なので1日9千円、月7万2千円にもなったので、すごくありがたかった。内容も受験ではなく、教科書の虎の巻を説明すればいいだけだったので、かなり楽だった。

 

0402 麻雀とパチンコ漬けの大学時代

大学の経営学部は4クラスで、経営学科2クラス、会計学科と情報科学科が1クラスずつ。地方出身者が半分くらい占めており、私の周りには東大受験者こそいなかったが、東北大、京大、阪大、神戸大、九大などのすべり止めで入ってきたー浪か二浪の奴が多かった。中には一橋の4浪っていう猛者もいた。8人ほどのグループができて行動を共にしていたが、現役は私の他にもう一人のみ、お前ら現役で横浜国大入ってどうすんの?と言われたものだった。8人にときどき1人女子が同じグループになって行動していたが、女子は学部全体で10人くらい、そのうちの1人なのだが、別に8人のうちの誰かの彼女という訳でもないのに、なんとなくそのグループに入っていた。自分が女子8人の中に1人入れと言われても絶対無理だが、女子というのは案外肝が据わっているというかなんというか。T、N、U、Y、S、S、Hと私。

講義が一コマ休講になったりすると、大学の近所に2軒雀荘があり、そのメンツでよく卓を囲んでいた(さっきの女子はこの場にはいなかった)。また、パチンコが好きな者も多く、パチンコにもよく行き、専らタバコに替えていた。ちょうど手打ちから電動式に替わるくらいの時代だった。まだフィーバーはなく、最初はチューリップ台とかで、のちにはひこうき台やかっ飛ばせ台(わからんだろうなあ(笑))。

0401 あこがれの都会、そして初めての一人暮らし

横浜には全く土地勘がないので、東京で一人暮らししていた兄に付き合ってもらって不動産屋さんに行った。大学に行くには相鉄線和田町駅で降りるか、横浜駅からバスで行くことになる。横須賀線で横浜から一駅の保土ヶ谷駅で降り、不動産屋を訪ねた。大学も元々ゴルフ場だった敷地に統合されたので、そこそこ坂の上だったが、横浜の街は平地が少なく、どこに行くにも坂を上り下りしなければならない印象だった。結局保土ヶ谷駅にも、相鉄線天王町駅にも徒歩10分くらいで行ける月見台というところの2階建てのアパートの2階に決めた。6畳一間にトイレとわずかばかりの台所つき、風呂はなし。銭湯は歩いて5分くらいのところにある。今とは物価水準が全然違うが、月1万4千円だった。

電化製品は14インチくらいのテレビと冷蔵庫、炊飯器くらい。電話もないという今では考えられない生活だった。洗濯は銭湯に行く途中にあるコインランドリーで銭湯に入っている間の時間にやっていた。

当時のドラマで、中村雅俊俺たちの旅が流行っており、下駄に憧れて銭湯へは下駄を鳴らして通っていた。たくろう、かまやつひろしの我が良き友よの時代である。

♪下駄を鳴らして奴が来る~♪、腰に手ぬぐいぶら下げて~♪

0309 どうする大学受験

当時はまだ国立大学に一期校・二期校という区分があり、一期校は地元広島大学を受けるというのはもう選択の余地もないくらい早くから決めていたが、二期校は普通だったら近いところでは愛媛大学とか山口大学だったが、あまり行きたいとは思わなかった。都会へのあこがれもあり、自分の力試し的な意味合いで、横浜国立大学を受けることにした。横浜国大は二期の東大とも言われ、旧帝大や一橋を受ける人のすべり止めで受ける人も多かった。兄貴が東京(立教)で一人暮らししていたこともあり、受験勉強のご褒美も兼ねて上京することにした。

ちなみに私立のすべり止めは、関西学院大学同志社大学を受けた。

最初の入試は関西学院。一緒に受ける友達2人とその友達の親戚の家に泊めてもらい、雑魚寝してから入試に臨んだ。阪急電車で大学に行ったのだが、電車で一緒になった子供が関西弁をしゃべっているのがとても新鮮だった記憶がある。

もう一つの私立、同志社大学。さすが京都は学生の街なので、生協が素晴らしく、受験のホテルのあっせんで泊まったのが駅裏の新都ホテル。そんなホテルに泊まった経験がないいなかっぺ高校生にとっては、初めての驚くべき経験で、朝食のスクランブルエッグだけでももう感動してしまった(笑)。

雑魚寝の関西学院とは大違いでみごと合格した。

広大は模試や進路指導でも恐らく大丈夫と言われていたこともあり、普段通りの実力が出せたので、一日目で恐らく受かったと思った。

そして人生最後の入試の横浜国大へ。まあもともと受かるつもりもなかったが、案の定一科目が終わった時点で、ほとんどできず一期校の広大は恐らく受かっている自信もあったので、もう途中で止めて東京見物して帰ろうかとも思ったが、一生に一度のことだからと、最後まで全部受けた。まず合格することはないと思ったので、合格通知の電報も申し込まず(時代を感じさせるが当時はこんなサービスがあったんです(笑))、そのまま兄貴の下宿を訪ね2日ほど泊めてもらい帰広した。

そのときのカルチャーショックが二つ。一つは兄貴と待ち合わせた喫茶店で食べたツナトースト。東京人はこんなおいしいものを食べるんだと(笑)。もう一つは兄貴の下宿で朝起きると、FM東京からめっちゃかっちょいいCMが流れてきて、それで目覚めたこと。当時FM広島はまだなくて、NHKのFM放送はよく聴いていたが、ステレオ放送のコマーシャルは初めて聴いたので、感動した。

広島に帰って、これも我が人生の大きな選択肢、分岐点の一つになっていると思うのだが、そろそろ広大の入学金を納めに郵便局に行こうと、まさに家を出るタイミングで、「速達で~す」

横浜国大から合格通知が届いたのだった。もうほとんど広大に行くつもりでいたのだが、そういうタイミングで合格通知が届いたのも何か神様のお告げみたいに感じて、また都会での一人暮らしのあこがれもあり、横浜国大に行くことに決めたのだった。結局、わが人生で高校・大学を通じて唯一雑魚寝の関西学院大だけが不合格となった。

0308 赤ヘルカープ初優勝


f:id:hiroshinji:20201219133703j:image
子どもの頃からずっと広島っ子だった私は、もちろん根っからのカープファンで、強い巨人の判官びいきということもあり、巨人は大っ嫌い、阪神は次に応援していた。

小学生のとき、友達みんなもカープのユニフォームを作るブームのときがあったが、左利きの私は、一番有名だったのは山本一義だったが、足が遅いからという理由で、横溝桂選手の31番のものを買ってもらった。

それまでカープと言えば常に弱小球団として深く安定していたが、高校3年の年にルーツ監督のチームで山本浩二と衣笠の二枚看板を筆頭に強豪チームとなり、オールスターでこの二人が2本ずつホームランを打って波に乗り、初優勝の夢を賭けて広島市民が大いに盛り上がる年となった。大下、三村、ホプキンス、浩二、衣笠、シェーン、水谷、水沼、外木場(金城)などなど、今でも打順が言えるほどのめりこんでいた。(受験の年だというのに(笑))

広島の高校生・受験生はカープに夢中だったため、当時の受験雑誌には「今年の穴場は広島大学」とまことしやかに記事に書かれるほど(笑)。

 

0306 ユニークな先生たち

1年の時の担任はF先生。体育の先生で、王貞治にかなり似てた。

2年の担任は、Y先生。国語の先生で、自分で小説を書いていたらしく、かなり変わっていたと思う。家にテレビを買っていないと言っていた。興奮すると語気が荒くなり、つばが飛んできそうな感じだった。

3年の担任は数学のT先生。小声でぼそぼそと、たまに何を言っているのか聞き取れないことも。数学というのは○○と同じで、自己満足でしかない、とか今ならセクハラになるようなことを言ってて、この人女子もいるのに授業中に何を言っているんだと思った(笑)。何か抜けているようなところもあり、正直ぶっちゃけると、大学の願書を出し忘れなければいいがとひそかに心配していた。

授業は受けていないが、体育の先生でサッカー部の顧問をしていたI先生。サッカーの1級審判員の資格も持っていて、当時はまだJリーグ前の日本リーグだったが、よく主審をされていた。

ほかにも英語の先生で、文の途中切るべきところを「なめ(斜め)線」と言ったり、別の先生で「文の切るところを間違えると、弁慶がな~、ぎなたを持って…」というのが口癖の先生とかもいた。

 

0305 花の東京と日光、信州の旅

f:id:hiroshinji:20200912145236j:plain

f:id:hiroshinji:20200912145258j:plain

髙2の秋、高校時代の最大のイベントとも言える修学旅行。1年のときアンケートがあり、「信州」、「北九州」、「南九州」の三択から「信州」に決まった。11クラスもあり、同一行動は難しいのか、2グループに分かれ、3泊4日の2泊目だけ合流し同じホテルに泊まる行程だった。実は我々の次の年から普通に新幹線だったらしいが、我々は最後の修学旅行専用列車で東京に向かい、そこから北上し日光から信州に入り富士山を経由して東京に戻ってくるパターン。訪れた観光地は

皇居、日光東照宮華厳の滝白樺湖、車山(八ヶ岳)、富士山(五合目)、東京タワー、などなど。

最も印象的だったのは、車山の山頂に歩いて登ったのだが、快晴ではるかかなたに富士山がくっきりと見えたこと。ガイドさんもめったにないから運がいいと言っていた。

車山から見る富士の気高さ。わが生涯最高の日。と文集に書いたような。

バスの中でみんなが順番に1曲ずつ歌った記憶があるが、私は郷ひろみの「よろしく哀愁」を歌い、女子をうっとりさせた(違うか(笑))。