hiroshinji’s diary

生まれて小・中・高・大学生までの思い出を綴ってます

0309 どうする大学受験

当時はまだ国立大学に一期校・二期校という区分があり、一期校は地元広島大学を受けるというのはもう選択の余地もないくらい早くから決めていたが、二期校は普通だったら近いところでは愛媛大学とか山口大学だったが、あまり行きたいとは思わなかった。都会へのあこがれもあり、自分の力試し的な意味合いで、横浜国立大学を受けることにした。横浜国大は二期の東大とも言われ、旧帝大や一橋を受ける人のすべり止めで受ける人も多かった。兄貴が東京(立教)で一人暮らししていたこともあり、受験勉強のご褒美も兼ねて上京することにした。

ちなみに私立のすべり止めは、関西学院大学同志社大学を受けた。

最初の入試は関西学院。一緒に受ける友達2人とその友達の親戚の家に泊めてもらい、雑魚寝してから入試に臨んだ。阪急電車で大学に行ったのだが、電車で一緒になった子供が関西弁をしゃべっているのがとても新鮮だった記憶がある。

もう一つの私立、同志社大学。さすが京都は学生の街なので、生協が素晴らしく、受験のホテルのあっせんで泊まったのが駅裏の新都ホテル。そんなホテルに泊まった経験がないいなかっぺ高校生にとっては、初めての驚くべき経験で、朝食のスクランブルエッグだけでももう感動してしまった(笑)。

雑魚寝の関西学院とは大違いでみごと合格した。

広大は模試や進路指導でも恐らく大丈夫と言われていたこともあり、普段通りの実力が出せたので、一日目で恐らく受かったと思った。

そして人生最後の入試の横浜国大へ。まあもともと受かるつもりもなかったが、案の定一科目が終わった時点で、ほとんどできず一期校の広大は恐らく受かっている自信もあったので、もう途中で止めて東京見物して帰ろうかとも思ったが、一生に一度のことだからと、最後まで全部受けた。まず合格することはないと思ったので、合格通知の電報も申し込まず(時代を感じさせるが当時はこんなサービスがあったんです(笑))、そのまま兄貴の下宿を訪ね2日ほど泊めてもらい帰広した。

そのときのカルチャーショックが二つ。一つは兄貴と待ち合わせた喫茶店で食べたツナトースト。東京人はこんなおいしいものを食べるんだと(笑)。もう一つは兄貴の下宿で朝起きると、FM東京からめっちゃかっちょいいCMが流れてきて、それで目覚めたこと。当時FM広島はまだなくて、NHKのFM放送はよく聴いていたが、ステレオ放送のコマーシャルは初めて聴いたので、感動した。

広島に帰って、これも我が人生の大きな選択肢、分岐点の一つになっていると思うのだが、そろそろ広大の入学金を納めに郵便局に行こうと、まさに家を出るタイミングで、「速達で~す」

横浜国大から合格通知が届いたのだった。もうほとんど広大に行くつもりでいたのだが、そういうタイミングで合格通知が届いたのも何か神様のお告げみたいに感じて、また都会での一人暮らしのあこがれもあり、横浜国大に行くことに決めたのだった。結局、わが人生で高校・大学を通じて唯一雑魚寝の関西学院大だけが不合格となった。