hiroshinji’s diary

生まれて小・中・高・大学生までの思い出を綴ってます

0514【プロ野球】

最初の方でも少し書いているが、幼稚園の行事で市民球場に応援に行ったり、家族で外食の帰りに球場に入るなりファウルボールが肩に当たったり、ユニフォームは横溝桂の31番を買ってもらったり、子供の頃から何かと接点はあった。

一貫してアンチ巨人カープファン、ペナントレース中は昨日は勝ったか負けたか程度は常に関心があった。そして高3のときの昭和50年、赤ヘルカープの初優勝で大いに盛り上がった。→高校時代 赤ヘルカープ初優勝 参照

記録を見ると、初優勝の前は1968年に根本監督のとき、初めて3位でAクラス入り。ピッチャーでは外木場と安仁屋、打者では山本一義とトレードで獲得した山内などか活躍していた。当時は貧乏球団でもあったため、12球団唯一助っ人外国人のいない純血主義の球団だった。

その後打者では衣笠や山本浩二、水谷、ピッチャーでは佐伯、金城らが台頭し、池谷も入団し1975年の初優勝となった。さらに、江夏を獲得したり、高橋慶彦、北別府、山根、大野、津田らが活躍し、1991年まで日本一3回、(1979、1980、1984)、リーグ優勝6回(1975、1979、1980、1984、1986、1991)と黄金時代を築いた。

特筆すべきは1979年の悲願の日本一達成の年。衣笠が巨人西本のデッドボールにより連続イニング出場記録が途絶えたり、高橋慶彦の33試合連続安打、そして日本シリーズでは近鉄相手にノーアウト満塁の大ピンチからの江夏の21球。

80年代は小早川、正田、西田、長内、ピッチャーでは福士、長冨らが活躍し、91年には佐々岡、川口、野村、山崎、江藤らによりリーグ優勝。

その後は、打者では前田、緒方、金本、新井ら、ピッチャーでは紀藤、山内、黒田、前田健太ら好選手を輩出するも長らく優勝から遠ざかった。

2015年緒方監督に代わり、大リーグで活躍していた黒田がカープに復帰、久々の優勝が期待されたが4位に終わり、沢村賞前田健太ドジャースに移籍となった。

翌16年は、「1番・田中、2番・菊池、3番・丸」の「タナキクマル」と呼ばれる打順が定着すると、鈴木誠也が2試合連続サヨナラホームランを含む3試合連続決勝ホームランを放つなど活躍し25年振りのリーグ制覇となった。ちなみに私はそれほど球場に足を運ぶ方ではないが、誠也3連発の初戦の延長12回サヨナラ弾のとき観戦していたのはちょっと自慢(笑)。

日本シリーズ日本ハムファイターズとの対戦で、広島ズムスタで連勝したものの、札幌ドームから4連敗で涙を飲んだ。

17年は早くから首位を独走し、早めにリーグ連覇を決めたが、クライマックスシリーズでDeNAに2勝4敗で敗れ日本シリーズには進めなかった。

18年も4月から首位を譲ることなく無難にリーグ3連覇。広島で1勝1分けでスタートするもそこから4連敗でまたしても日本一奪回を逃す。

この間16年で黒田が、18年には新井がそれぞれ引退した。また、丸がFAにより巨人へ移籍し、19、20は巨人が連覇、広島はBクラスに甘んじた。